特定非営利活動法人(NPO法人)
ハイキングクラブかざぐるま
視覚障害者と共に野山を楽しむ会

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 大阪府高槻市立、安岡寺小学校でのスピーチ(2010年11月2日(火))   古閑 洋一郎
 視覚障害者ペア登山 : 一本のロープが絆を生み山の楽しさを教えてくれた
 毎日新聞のコラムに、ハイキングクラブかざぐるまの記事が掲載されました。  小園 長治
 歩くと言うこと  (盲人歴25周年記念投稿なんちゃって!)          佐々木 一幸
 気軽な気持で
 
 
 

 

  大阪府高槻市立、安岡寺小学校でのスピーチ (2010年11月2日(火))


                                                        古閑 洋一郎

 (前段)
  授業中、教室で教師が話をしていても、私語が多くて騒がしいのは当たり前のご時世に、小学5年生76名を前に
  してのスピーチをすることになり、頭を抱え込んでしまった。
  原稿をまる読みするようでは気が散りやすく、我慢が苦手な生徒が、話を聞いてくれるわけがない。
  どうやったら、私の話を、生徒達が、静かに聞いてくれるか考えた。
  そこで、冒頭に生徒を驚かせ、注意力を集中させることにした。
  
  ヘルメット、アルパインクライミング用の、フル装備を身につけて、手には、90Lのザック(ピッケル、アイスバイル、
  アイスハーケン、スノーソー、厳冬期対応シュラフ、シュラフカバー、登山靴、12本爪アイゼン、ザイルを入れて)、
  生徒達の待っている部屋の、戸をガラガラと押し開き、大きな声で生徒に向かって「こんにちは」
  演壇のテーブルに、ザックの中身を見えるように並べ置いた。
  全生徒の眼差しが、私に集中し、室内は「シーン」。みんな、あっけにとられている。
  
  それは、そうだろう。先生に、「今日は視覚障害の人達との交流で、H・Cかざぐるまの人の話を聴いたり、サポート
  体験や、給食を一緒に食べます」と、聞かされていたわけだから。

 (ここからがスピーチ)
  安岡寺小学校の、生徒の皆さん、こんにちは。私は、「ハイキングクラブ・かざぐるま」の、古閑洋一郎です。
  よろしくお願いします。
  突然ですが、私の趣味は、なんだか分かりますか?ヒントは、この姿と、この装備です。
  
  (ここで、わかった生徒に、手を上げて、答えてもらった)
  私の趣味は、アルパイン・クライミング、アイス・クライミング、沢登りなどの、山登りです。(アルパインクライミング
  の、フル装備を装着して壇上にいるので、ここでは、装備類の使用説明をしながら簡単に話す)
  
  それでは、皆さんに、私が入っている、「ハイキングクラブ・かざぐるま」の紹介をします。
  「ハイキングクラブ・かざぐるま」は、視覚障害者(目が見えない)人と、晴眼者(目が見える)人の集まりです。
  みんなで、ハイキングや、登山を楽しんでいます。
  
  ロック・クライミングや、アイス・クライミング、沢登りのような、命がけの、激しい登山をしてきた私が、どうして、
  「ハイキングクラブかざぐるま」に、入会したと思いますか?
  それは、6年前に、六甲山の芦屋ロックガーデンで、ロッククライミング(岩登り)のトレーニングをしていた時に、
  山で出会った、視覚障害の人がきっかけでした。
  
  朝から何度も岩を登ったり降りたりしてお腹が空いてきたので、下の広場でお弁当を食べようと降りていくと、
  広場ではハイキングのグループが、楽しそうにおしゃべりしながら、お弁当を食べていました。
  そのグループに向かって「こんにちは」と挨拶をしてから、私もその隣にすわってお弁当を食べ始めました。
  そして、隣のグループの人達を見て、ビックリしました。
  その中に、目の見えない人がいたのです。
  
  目が見えないのに山に登って何が面白いのかな、楽しいのかな。そう、心の中で思いました。
  私は、疑問に思ったことは、そのままほっておけない性格です。
  目の見えない人に近づいて、「こんにちは、目がご不自由のようですが、山での一番の楽しみは何ですか?」
  と話しかけました。
  すると、「聞こえませんか?」と言われました。
  言われた意味が良くわからなかったので、少し考えていたら、「下の方で沢の音がしています」、「近くで野鳥
  が3種類鳴いています」、「すぐ近くに大きな木が生えているでしょう」、「頭上で風に吹かれて、木の葉がこすれ
  合う音が聞こえています」。
  
  「私は、目が見えないけれど、山に来て、こうした自然の音を聞いて、楽しんでいます」。
  「それと、花の香りや、落ち葉の積もった、山道を踏みしめる時の、ふわふわとした感触が、足の裏から伝わって
  きます、急な登りで、岩に手をついて、岩をつかむ感触も楽しんでいます」。
  
  「暑い日は、山の上で、ほほに当たる涼しい風は、とても気持ち良いです」。
  でも、一番の楽しみは、友達といっしょに、全身を使って山に登り、お腹がぺこぺこになって、お弁当を食べ、
  みんなで楽しく話しながら過ごすことです」。
  と、言われて私は、自分が恥ずかしくなってしまいました。
  
  私は、若かった頃から山登りが大好きで、人を追い越して、人より早く登ったり、一般の人が登れないような岩山
  をロッククライミングして登ったり、凍った滝を登って満足し、誰よりも山で楽しんでいると思っていたのですが、
  それはとんでもない間違いだったと、その時気づかされたのです。
  
  自分は今までなんと、かたよった山登りをしてきたのだろう。
  今思えば、私は心にゆとりの無い、山登りばかりしていました。
  困難を乗り越えて、山に登れた達成感は、それはそれですばらしいことです。
  でも、この目の不自由な人は、人間や動物が持っている五感の内、視覚は欠けているが、残りの4つの感覚を
  フルに使って、山を心豊かに楽しんでいる。
  素晴らしい事だな、と思いました。

  それでは、ここで、五感(五つの感覚)について説明します。
  1、視覚とは、(目で見て感じること)
  2、聴覚とは、(耳で聴いて感じること)、
  3、触覚とは、(手足や身体で触れて感じること)、
  4、味覚とは、(舌で感じること)、
  5、臭覚とは、(鼻でにおって感じること)

  私も、五つの感覚のすべてを充分働かせて、心豊かな山登りがしたくなりました。
  どうしたら、それが出来る様になるだろう?
  そうだ、わかった、目の見えない人といっしよに山に登っていれば、、五感を充分使って、豊かに山を楽しむこと
  が学べるはずだ。
  以上が、私がハイキングクラブかざぐるまに、入会するきっかけでした。

  入会して分かった事ですが、視覚障害の人もいろいろです。
  生まれた時から、目が見えない人、病気や怪我で、途中から目が見えなくなった人もいます。まったく何も見えな
  い人、見えないが、明るい暗いはわかる人、ぼやけて少し見える人、視野が極端に狭い人、などさまざまです。

  でも、目に障害があるだけで、あとはみなさんと同じで、違いはありません。
  目が見えない現実を受け入れ、自分で出来る仕事を見つけて、働いています。
  そして、趣味もいろいろ楽しみ、力強く生きています。
  私は、そんなハイキングクラブ・かざぐるまの、視覚障害の仲間が大好きです。
  おかげで、私も心豊かな山登りを、楽しむことが出来るようになりました。
  これからも、ハイキングクラブ・かざぐるまの仲間達といっしょに、いつまでも、心豊かな山登りを続けていきたい
  です。
  
  ありがとうございました。
  私の話は、これでおしまいです。
       

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 毎日新聞のコラムに掲載された記事の紹介 〔2007年1月9日〕
  視覚障害者ペア登山 : 一本のロープが絆を生み山の楽しさを教えてくれた
                                               毎日新聞社記者 小園 長治

  「私に目の代わりが務まるだろうか」。初めて視覚障害者とペアで登山道に踏み込んだ時、山頂は遠い彼方にも
  かかわらず、先導役である私の緊張感は、既にピークに達していた。
  パートナーは、右手の白杖(はくじょう)で足元を探り、左手は私のリュックサックに結ばれたサポートロープを握る。
  登山道の状況を説明する私の言葉が、パートナーの目になる。私の不安を察したパートナーは「山を一緒に楽し
  みましょう」。この言葉に背中を押されて頂上を目指した。

 ■再 開
  
  私が山登りを再開したのは3年前。健康診断の結果に医師から「このままでは長生きできませんよ。運動しな
  さい」という厳しい指導を受けたからだ。
  休日を利用して、自宅から近い神戸市内の六甲山(931・3メートル)や摩耶山(698・6メートル)などを歩き回っ
  ていると、気分が爽快になり、忘れていた山登りの楽しさを思い出した。しかも登頂後のビールの味は格別。
  こうした中で出会ったのが、視覚障害者と晴眼者の登山グループ。ごつごつした岩肌の急坂を晴眼者の言葉に
  導かれて、視覚障害者が手と足を巧みに動かしながら登って行く。
  衝撃を受けた。それまで「視覚障害者に登山は無理」というのが、私の中の常識だった。足を踏み外すと谷底に
  転落する細い道もある。地面に現れた木の根っこや石の段差につまずいたり、浮き石に足を乗せてバランスを
  崩し転倒することもある。落石もある。

 ■契 機

  先輩記者に「私の常識が覆されました」と話すと、「大阪にも視覚障害者と晴眼者が参加する登山グループが
  ある」と教えられ、「H・Cかざぐるま」を紹介された。
  H・Cかざぐるま代表の比嘉財定さん(61)は=大阪府吹田市=「まず訓練を受けてください。何度か(視覚障
  害者と)一緒に登れば、コツが分かりますから」と簡単に言う。全盲の比嘉さんの登山歴は20年以上。関西一円
  の山から北アルプスなどの3000メートル級の山々も登頂している。
  初めての訓練は、このベテラン・クライマーとペアを組んだ。長さ約3メートルのザイルを二つ折りにし、一方の端を
  私のリュックサックにくくりつけ、もう一方の端を結び、盲導犬のハーネスの役目を果たすサポートロープを作った。
  パートナーはサポートロープの動きで、先導役が歩く方向や速度、登り坂、下り坂の角度を知る。

 ■戸惑い

  「右足を(時計の短針で)1時の方向。上へ約50センチ」「道幅は約1メートル。右側は切れています(がけになっ
  ています)。私の真後ろについてください」「岩と岩の間を通過します。幅は約50センチ」「頭の高さに木の枝が張り
  出しています。頭を下げて」
  私は懸命に登山道の様子をスポーツの実況放送のように説明する。少しでも、言葉に詰まると説明を必要とする
  場所を通過してしまう。説明するタイミングが難しい。登るにつれて私の息づかいも荒くなり、声が出にくい。それで
  も比嘉さんは何事もないように背中にピタリとつく。
  新米の先導役は登山経験が豊かな視覚障害者とペアになり、まだ登山を始めて間もない視覚障害者は、先導役
  を重ねた晴眼者のサポートロープを握る。

 ■転 機

  私はこれまでに犬鳴山・七宝滝寺(約400メートル)=大阪府泉佐野市▽蓬莱(ほうらい)山(1174メートル)=
  大津市▽六甲高山植物園(860メートル)=神戸市▽高取山(584メートル)=奈良県高取町=で4回訓練を受け、
  それぞれ異なる視覚障害者とペアを組んだ。
  実は訓練のたびに、悩むことがあった。ペアを組む相手に対して「この人は全盲なのか、それとも(めがねなどで
  矯正し得ない)弱視なのか。視力を失った時期は」。果たして質問しても、相手に失礼にならないか。少しためらっ
  た。この悩みに対してH・Cかざぐるまのメンバーで中途失明の佐々木一幸さん(52)=大阪府東大阪市=から
  アドバイスを受けた。佐々木さんは東京の私大工学部に入学して2週間後に目の異常を訴え、手術のかいもなく
  光を失った。
  「遠慮することはありません。全盲か弱視か。弱視の程度も質問してください。失明時期も重要です。幼いころに
  失明したのか、20代、30代で失明したのか。視力があったころの記憶も登山には大切です」
  佐々木さんが目にした最後の記憶は、入院中の病室で同室の患者が持ち込んだ小型テレビの番組。「女優の
  浅田美代子さんが『赤い風船』を歌っていました」

 ■確 信

  私は視覚障害者と一緒に山に登ることをボランティアとは考えていない。サポートロープで結ばれた「山の仲間」
  だと思っている。山の仲間である以上、立場は対等。一緒にしんどい岩場を協力してよじ登り、呼吸もたえだえに
  山頂を目指す。頂上に立った二人は、五感で自然を愛(め)でる。達成感、満足感を共有する。そして記念写真
  を撮り、おにぎりを食べて、無事に下山する。
  経験を重ねて、信頼されるパートナーの目になったら、この夏は北アルプスの槍ケ岳(3180メートル)、六甲全山
  縦走(56キロ)に山の仲間を誘うつもりだ。

………………………………………………………………………………

 ◇H・Cかざぐるま
  会員は約100人。うち視覚障害者は約40人。今年で結成20年を迎える。事務局は大阪府吹田市朝日町の
  比嘉治療院内。視覚障害者、晴眼者の会員を募集している。入会などの問い合わは、かざぐるま事務局
  (06・6383・7151)。月1回程度、関西の山に日帰りで登り、夏山シーズンは北アルプスなどの山小屋に
  宿泊して縦走などに挑んでいる。  
  

  

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 歩くと言うこと (盲人歴25周年記念投稿なんちゃって!)


                                                           佐々木 一幸

  1973年6月26日。私が順天堂大学付属病院眼科を退院した日である。同年4月、大学に入学して1週間目、
  朝目が覚めると、明るいはずの部屋が薄暗い。段ボールの大きな字もぼんやりしているし、階下に下りる階段
  の角も分からない。とにかく大学の医務室に行くが、まだ校医の先生がきてないとの事で、近くの国立病院を
  紹介される。大学の事務員さんに付き添ってもらい国立病院の眼科を受診。診察結果は、「網膜剥離」とやらで
  即入院。診察室から車椅子で病室に運ばれ、ベッドに寝かされてしまった。しかも、頭の両サイドに砂枕を置い
  て動かないようにされてしまう。首から下しか寝返りができないと言うのは、非常に苦痛である。さらに、光が入
  らないように一日中アイマスクをしているので、徐々に昼と夜が逆転してくる。昼間はうつらうつらとし、夜中は
  ぜんぜん眠くなく、すっかり深夜放送のファンになってしまった。でも、何と言っても一番困ったのはトイレである。
  ベッドに寝たままで、大小とも用を足さなければならない。しかし、これがなかなか出ないのである。最初は、まる
  二日ほど出なかった。おしっこは、したくてしたくてたまらないのだが、チョロッとも出ない。お腹がパンパンに張っ
  てメチャメチャ苦しかった。二日目の夕方、やっと出たのだが、ほぼ溲瓶がいっぱいになった。それからは、小の
  方は順調に出るようになったが、大の方は難しかった。それ用の便器が有るのだが、寝たまま出すのには苦労
  した。しかも、用を足した後、立てていた膝を伸ばすと、ベッドの中にこもっていた臭いが襟元から噴き上がって
  くる。あ〜思い出しただけでもたまらん! 後日、起きていいようになった時、トイレで用を足せるのは、何と幸せ
  な事なんだろうとしみじみ思ったものである。

  この頃は、手術さえすれば元のように見えるようになるもんだと信じていたから、見舞いに来てくれた先輩や
  同級生、年齢の近い看護婦さんとアホな話をして笑っていた。しかし、1週間たっても2週間たっても診察するだけ
  で手術をしようと言ってくれない。後で聞いた話だが、この病院で手術するには難しかったそうである。

  とにかく、親戚の紹介で、ゴールデンウィークあけに順天堂大学病院に転院した。しかし、ここでも診察の毎日。
  なかなか手術してくれない。やや不安になるが、それでも99パーセントは成功するもんだと楽観的であった。

  「網膜剥離」と言うのは、当然ながら網膜がはがれている所は見えないが、はがれていない所は見えている。
  同室の方が持っていたテレビをこちらに向けてもらうと、浅田美代子が「赤い風船」を歌っていた。したがって、
  私が見た最後の芸能人は、浅田美代子である。一番最後に見た物は、安定剤でうつらうつらしながら見た、
  手術室の無影灯であった。

  手術の翌日、執刀した教授の回診があって、大名行列みたいにぞろぞろ引き連れてやってきた。術後の痛い目
  を順番に覗いていく。「うん、きれいに引っ付いている。」と教授は言っていたのだが、三日たっても四日たっても
  見えてこない。それどころか、網膜がはがれず見えていた所まで見えなくなっている。「これは、どないなっとん
  じゃぁ!」と思っていたら、担当医から「2度目の手術をしても、おそらく99パーセントダメだろう。」と言われた。
  「おいおい、話がちゃうやないか!」と思うものの、今更どうしようもない。母に伝えると泣いていたようだが、
  本人さんは障害者になったと言う意識もないし、あまりショックも感じていなかったように思う。いやっ、ショックと
  言うものを通り過ぎて、いわゆる「頭が真っ白」状態だったのかもしれない。いつもアホ話をしていた看護婦さんが、
  いつもの明るい声で冗談ぽく「自殺なんか考えたらダメよ!」と肩をポンとたたいていった。自分としては、悲嘆
  に暮れたり、これからどうしようと深刻に考えこんでいた訳でもない。周りからは、そう見えたかもしれないが、
  なんせ「頭真っ白」状態だから、ほとんど何も考えていなかったと思う。ただ、深夜になると自然に涙だけが
  流れた。

  退院して、他の病院の診察を受けてみたが、どの病院でも結果は同じだった。7月の下旬、郷里に帰る。
  すぐに母が、近くの視覚障害者の方から点字板を借りてきて、点字の練習が始まった。それに、コインの識別、
  マージャンの盲パイの練習など、指先の感覚訓練である。な〜んもする事がなかったので、暇つぶしにおもしろ
  がってやった。8月の中旬に、どこからか「日本ライトハウス」のパンフレットを手に入れてきた。これまた暇だった
  ので、面接を受けて9月から入所する事になる。

  入所してよく言われた事は、突然失明すると、短い人で2・3年、長い人だと4・5年くらい鬱々とした日々を送るの
  だそうである。家族や友人知人からいろいろ言われて、やっとこういう施設に入所する人が多いそうである。
  よく2カ月で…と驚かれるが、私としては、なったものはしゃあないし、家でごろごろしてても暇だし、驚かれる事
  に驚いた。それよりも驚いたのは、自分としては中途失明者の訓練施設に来ているつもりである。にも関わらず、
  入所している人たちは、走るようなスピードで歩いているように、その当時の私には思えた。コーナーもさっと曲が
  るし、階段もたったっと登り下りする。しかも、外出するにもステッキ1本でどこへでも行く。私は、退院してから東京
  にいた時も、郷里に帰ってからもどこかに出かける時は、常に家族か親戚の誰かに手引きをしてもらっていた。
  それが当たり前だと思っていたし、一人で外出するなどと言うことは考えてもいなかったし、できるとも思えなかった。
  センターの向かいに公園があって、感覚訓練として二人乗りの自転車に乗ったり、野球やゲームをしていた。
  入所当時は、センターと公園を隔てている5mほどの道路が恐くてわたれなかった。

  まもなく歩行訓練が始まり、ステッキの使い方やまっすぐに歩く練習をした。向かいの公園で、何の目標もなしに
  まっすぐ歩く。自分では、まっすぐ歩いているつもりなのだが、ほとんど左右のどちらかに曲がってしまう。それから、
  2本の材木を肩幅に置き、その幅でステッキを左右に振る練習。えっ!まだするの!!と言うくらい延々とやらさ
  れた。ステッキを使っての階段の登り下りの練習などをやって、やっと外に出られるようになる。

  センターには、センターの周辺から最寄り駅までの立体地図が有り、頭の中に大まかな地図を描く。最初は、近くの
  喫茶店、次はその先のお風呂屋さん、ポスト、タバコ屋さん、花屋さんと徐々に距離を伸ばして行き、駅までの往復
  ができるようになる。その頃には、喫茶店のドアベルの音、タバコ屋さんの自動販売機のモーター音、花屋さんや
  魚屋さんの臭いなど、目印… いやっ耳印とか鼻印を頭の中の地図に付けていく。この地図がしっかりできてない
  と、次の段階で歩行訓練士の指示したコースで駅までの往復をするときに困る。自分のいる場所が分からなくなり、
  「ここはどこ? 私は誰?」状態になってしまうのである。ハイキングや登山で地図を読むのが必要なように、頭の
  中に地図が描けないと、なかなか単独歩行ができない。

  電車の乗り降りやホームでの移動などを訓練した後、総仕上げと言うか卒業試験が有る。私の場合は、梅田の
  阪急デパートに行って、地下の食料品売場で「小岩井の笹チーズ」を買ってくると言うものだった。卒業試験のパス
  に気をよくして、ある計画を立てた。

  その計画とは、郷里へ一人で帰省する事である。正月休みの時は、大阪まで親に出てきてもらった。3月は、何とか
  一人で帰ってみようと思った。しかし、親に言えば反対されるのに決まっているから、黙って帰ることにした。
  大阪駅までは行った事が有るので問題はない。大阪駅で東海道線に乗り新大阪駅。新幹線の切符を買って
  岡山駅へ。人が多いので尋ねる人にはことかかない。しかし、通り過ぎる人も多いし、黙って立ち止まれたのでは、
  こちらが分からない。生来、面倒臭がり屋で、いちいち尋ねるのは面倒だったが、「人に尋ねるのも歩行技術の一つ
  である。」と訓練士に言われていた事もあって尋ねまくった。岡山駅では、ほとんどの人が在来線に向かうので、
  その流れに沿って歩いて行くと、スムーズに乗り換えができた。

  宇野駅で連絡船に乗り換え、高松駅で予讃線松山行き特急に乗り換えた。郷里の駅、駅周辺、実家の周辺は、
  頭の中に地図ができているから、ここまで来たら、成功したようなもんだ。郷里の駅でタクシーに乗り、実家の近く
  で下りる。用水路に沿って50mほど歩くと、実家のブロック塀があった。塀に沿って歩き、門を入り玄関に入る。
  やった〜!大成功!! 来客だと思って出てきた母が、私を見て驚き、怒り、喜んでくれた。私も非常にうれしか
  った。一人で歩くと言うこと、歩けると言うことが、こんなに楽しく、これほど素晴らしい物だと思った事はなかった。

  晴眼者から見ると、無謀な事のように思えるかもしれない。しかし、歩行訓練を受ける中で、ステッキを十分活用し、
  慎重且つ大胆に行動すれば、何とかなるように思えた。障害者または傷害を英語では、「Handicap Parson」、
  「Disability」と呼ばれるが、最近では「Challenged」(チャレンジド)とも呼ばれるそうである。「挑戦する」「意欲的
  に」「前向きに」と言ったような意味であろうか。私は、「無謀」と「挑戦」とは、紙一重のようでもあり、全く違うように
  も思える。

  障害者運動の成果により、点字ブロックや音響式信号機も増え、単独歩行がしやすくなった。だが、やはり手引き
  をしてもらって歩く方が、断然安全だし、精神的にも楽である。最近はガイドヘルパー制度も充実してきて、単独歩行
  ができない人でも外出しやすくなった。しかし、単独歩行ができる方が望ましいと思う。なぜなら、有る程度単独歩行
  ができないと、手引きに依存してしまい、手引きする人にかなりの負担を強いるからである。ガイドヘルパーをして
  いる知り合いの女性から、視障者の方をガイドヘルプしていて、京都の市電から下車する際、高低差があったので
  「高いですよ。」と声をかけたにもかかわらず、視障者の方は、ステッキで高さを測ることもなくぴょんと飛び降りた
  そうである。思ったより高かったのか足腰が弱かったのか、着地したとたん、ホームから車道へ転げ落ちた。知り
  合いの女性も、引っ張られて一緒に転げ落ちてしまったそうである。幸いにも車が走っていなかったから、最悪の
  事態は避けられた。ガイドヘルパーを30年ほどやっていると言う人が飛んできて、知り合いの女性を「私たちガイド
  ヘルパーは、視障者の安全に責任を持たないといけません。」と頭ごなしにガミガミと叱責されたそうである。

  上記の場合、視障者がステッキを使って慎重に下車していれば何の問題もなかったように思う。さらに、ベテランの
  ガイドヘルパーの方がおっしゃる「安全に責任を持つ」とは、どう言う事なのか。この「責任」と言う言葉をどのような
  意味でお使いになったかは知らないが、7・80kgも有る視障者がホームから落ちかけている時に、女性の力で
  止めることができるだろうか。それとも、幼児を扱うように抱き下ろせとでも言うのだろうか。ガイドヘルプ中に、
  暴走車が迫ってきた場合、身を呈しても視障者を守るのだろうか。あまりに軽々しく「安全に責任を持つ」などと言っ
  て欲しくない。もし私が晴眼者だとして、ここまで責任を持たなければならないのなら、手引きなどようしないと思う。

  上記の場合、視障者が少し気を付ければけがなどしなかったと思う。本当に安全を考えるなら、視障者に「ちゃんと
  ステッキを使ってください。」と注意した方が、これからのためにもいいと思う。少数だが、長年ボランティアをやって
  おられる方の中には、「障害者と接するには、こうするのだ。」「障害者の事は、すべて分かっている。」「お世話して
  あげている。」など、驕りとも取られ兼ねない言動をする人がいる。視覚障害者だけに限っても、視力、視野、年齢、
  体格、失明してからの期間、単独歩行ができるかどうかなどで、必要としている事柄が変わってくる。よく「障害者
  は、不幸ではなく不自由なだけである。」と言われる。この「不自由」と言うのが、障害者によって千差万別なので
  ある。視障者が手引きを受ける場合は、できるだけ晴眼者に負担をかけないように配慮するべきだし、晴眼者は
  固定観念で視障者を見ずに、白紙の状態で接していただきたいものである。失明して間もない人や高齢になって
  失明された方などは、かなり気を配らなければならないが、かなり単独歩行ができる人などは、肩や肘を貸すだけ
  で勝手についてくると思う。
  
  手引きを受ける立場の者の一方的な意見であって、お気に触った方がおられたならお許しください。これからも一人
  で歩ける素晴らしさを感じつつ、またいろいろな人との出会いを楽しみに歩いて行こうと思います。
  


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  気軽な気持で


  最近テレビなどで、「チョボラ」という言葉が使われているようです。
  「ちょっとだけ(ちょっとした)ボランティア」というような意味なのだそうです。
  私は、やたらと言葉を縮めてしまうことをあまり良くは思っていませんが、この言葉に関しては、「この気持が多くの
  人に広がれば…」と、むしろ好意的に受け止めています。視覚障害者(目の不自由な人)と接したことのない人は、
  例えば街で道を聞かれたり、うろうろ迷っている姿を見かけた時、「この人をどうしてあげたらいいんだろう。
  この人の目的地まで付き合わなければいけないのだろうか。どうやってエスコートすればいいのだろうか。
  私には急ぎの用があるので、変にかかわりになると厄介だからやり過ごしたいがだからといって無視はできない
  し…」そんなふうに思われた経験をお持ちの方もおられるでしょう。よくわかります。
  立場を逆にすれば、私もそう思うかも知れませんから…。まず、私のささやかな体験からお話しします。

  神戸駅始発のバスに乗って発車を待っていた時のこと、ステップのところから大きな声で「このバスは湊川を通り
  ますか?」と尋ねる男性がありました。車内にはそこそこの人が乗っていて、思い思いに着席していましたが、誰も
  その問いには答えません。  「自分が声を出さなくても、誰かが答えるだろう」その通りです。私もそう思っていた
  のですから…。  でも、これは、いつも私が経験し、(誰も答えてくれなくて)苦い思いをしたことが何度となくあった
  ことに思い至りました。何秒経ったかわかりませんが、私は思い切って、「このバスは平野回りですよ。」と言いまし
  た。その人は、「ありがとう」と言ってバスを離れました。 こんなわずかなことで、少しの勇気で、その人の、その時
  の役に立てた のだとしたら、「チョボラ」という、少し間の抜けた響きのあるこの言葉が まさに言い得て妙、好まし
  くさえ聞こえるから不思議です。

  バスや電車の中で白杖を持って立っている人がいても、 わざわざ席を譲らなくても、「3つ前の席が空いているよ」
  と、ちょっと声をかけて下さるだけで十分です。(もち論、いろんな状態の人があるので、一概には言い切れません
  が…)空席がいっぱいあるのに、1人だけつり革を持って立っている姿は、あまりパッとしませんし不思議な感じさえ
  与えるでしょうから…。そんな形であまり目立ちたくはありませんから…。

  横断歩道で視覚障害者を見かけたら、「信号が青になりましたよ」とだけ言って、お急ぎの方はどうぞお先に行って
  下さい。それだけで、あなたの善意は十分に相手に伝わっています。このようなことから、視覚障害者との関わりが
  珍しいことではない状態を作り出していただけたとしたら、私たちにとってこれほど嬉しいことはありません。 
  私たちも含めて、できることを、できる時に、できる範囲ですることが、相互理解につながるのだと思います。
  「チョボラ」の精神を持ち続けたいと思います。
  

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