2010年3月 超ソフト部例会:柚子の里 報告 |
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実施日 | 2010年3月28日(日) |
天 気 | 晴れのち曇り |
参加者 | 視障:4名 晴眼:7名 合計:11名 |
コース | 集合:JR大阪 御堂筋口 07:30 現地 JR保津峡 08:50 JR大阪駅 07:45発 新快速 JR保津峡駅 08:47着 ストレッチ体操 09:15発 柚子の里自治会バス停 10:30着 清和天天皇陵 11:05着 棚田 11:40着 昼食と野点を楽しむ JR保津峡駅 14:43発 JR大阪駅 15:43着 解散 |
感 想 | |
3月中旬より寒い日が続きお天気も心配でしたが、例会当日は風もなく日差しもあったことから、 比較的暖かな一日となりました。 JR保津峡駅前で地元の採れたて「しいたけ」が袋いっぱい入って500円と格安な為、今晩は 焼きしいたけで一杯!と皆さん早速購入し、帰りまで預かってもらうことにしました。 Iさんの号令で準備体操をした後、水尾の里まで約1時間会話を楽しみながら歩きました。 その後水尾の集落を抜け清和天皇陵へ。しばらくは谷に向かって下り坂、水尾川を渡ってから は石段が続く登り坂、清和天皇陵は杉木立の奥にひっそりとたたずんでいました。 その後集落まで戻り、棚田で昼食。昼食後、野点をして和菓子とお抹茶を楽しみました。 そしていつもの通り美味しいコーヒーも。 ゆっくりした後、恒例の3月生まれの方のハッピーバースディタイム。今回の参加者の中には 3月生まれの方はおられませんでしたが、2月29日生まれという4年に一度しかお誕生日が ない方がおられましたので、その方のお祝いを「楽団ひとり」のリコーダー奏者であるS氏の 演奏のもと、参加者全員でお祝いしました。 その後自己紹介や連絡・案内をした後JR保津峡駅へと戻りました。 今回、超ソフトとしては少々歩く時間が長かったかもしれませんが、清和天皇が都とのしがらみ を断って心穏やかに暮らすにはぴったりの土地だったのであろう山里をゆっくり楽しむことが できました。 |
参加者からの感想文 |
京都、水尾村「ゆずの里」ハイクに寄せて |
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前日までの雨模様も止み、薄日も差す何とも絶好のハイキング日和でした。 3月28日超ソフト部による、京都、水尾村、ゆずの里ハイキングは大好評でした。 その日、私は今年に入って最初の行事参加となりました。別に怠けていたわけでも有りませんが、新年 早々、風邪に取り付かれたり、他の行事に手を取られたりで思うに任せず、皆さんと疎遠状態でした。 以下はその記録です。 保津峡駅よりゆずの里まで3キロ弱の林道。緩やかな登りの細道。足裏から伝わるソフトな刺激。 遠ざかったり、接近を繰り返す谷川のせせらぎを左に、ウグイスや、シジュウカラ、目白、ヒヨドリなどの 小鳥たちのさえぎり。フィアンセを求めるための予行演習なのか、なんとなくぎこちない。 そして、名残り咲きの梅、これから咲き誇ろうとする桜、いまや真っ盛りの桃の花。 全ての植物の新芽が山道に満ち溢れ、皆の心を和ませる。 そんな早春の息吹を身に一杯浴び、進むこと約1時間でゆずの里に到着。 これよりは優しくほろずっぱいゆず畑の細道に踏み入り、さながらゆず浴に身を委ねつつ歩く。 しばらくして、今度は古来より受け継がれし、清和天皇御陵参道をジグザグに登り、石畳を踏み締め、 静寂な森に導かれる。引き返して昼食の場所に行く。 コーヒーの接待やゆずの香りでくるんだお漬物も絶妙で、これまた嬉しかった。 |
柚 の 里 水 尾 |
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ひっさしぶりの参加でしたが、以前と少しも変わらない雰囲気で、しっかりと楽しんできました。 ○○さんは相変わらず美人だし、△△さんは相変わらずにぎやかだし、ホント、自分が年をとっていること を忘れてしまいそう。 今回特筆すべきは、椎茸。ずっしりと持ち重りのする肉厚の椎茸十数枚で五百円。JR保津峡の駅を下りた ところで、土地の人が売っていました。持って歩くと傷むからと、帰るまで預かっておいてくれた気配りにも、 ビールの当てにどうぞと、鶏肉を焼いたものを下さったサービスにも、大感動!三日で完食しました。 お抹茶に雲竜にポンカン、紅白膾、食欲だけの感想の代わりに、水尾山陵の主、清和天皇について調べた ことを書いておきます。 なんと、あの在原業平(ミスター平安朝)の恋人だった高子さんを皇后にした人。生後八ヶ月で皇太子と なり、九歳で即位、藤原氏が全盛となる過程でさんざんに利用され、二七歳で譲位。出家して、水尾の 郷の近くで荒行に励むが、三一歳という若さでこの世を去ったということです。 この天皇の孫が皇族を離れて臣下となったことから清和源氏が始まり、鎌倉幕府の源頼朝、室町幕府の 足利尊氏や新田義貞、果ては徳川家康(家康は自称)まで、名門の武門の棟梁の祖となったとされてい ます。(現在は、陽成源氏が祖だとする説の方が優勢のようですが…) 清和は、端正な容姿頓、聡明な頭脳を持ち、しかも雅量があって寡黙だったといわれている。 ただ、体が弱かった。出家して素真と号し、本気で修行僧となり、山野を跋渉した。遂に水尾という「絶壑の 地」にきて、「ここで生涯を終えたい」といった。里人たちは、自分たちの里の美しさを見つけてくれたこの 貴人に感謝し、里の力でこの太上天皇のために山寺を建てようとし、造営にとりかかった。 清和はそれができあがるまで、ふもとの嵯峨の清霞観に仮住まいしていたが、やかて病を得、京の粟田口 の円覚寺に転じ、はかなくなった村人が悲しみ、天皇を祭神とする一社を建てた。以後千百年護持して いる。 略) 「清和源氏」などといって威を張った歴代の武家たちも、こういう村に天皇を祭る宮居があるなどとは知らな かったのか、寄進一つしていない。もっとも宮居がきらきらしくなるのは、清和の人柄にとってもふさわしく なく、また村人にとっても、清和は自分たちの神であって世間に押し出したくなかったのにちがいない。 司馬遼太郎「街道を行く26巻」 水の尾の四〇戸足らずの家々の大半が松尾姓で、清和天皇に仕えた人々の子孫だそうです。 |